みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

すべての人の主

そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」(使徒10:34-36)

 

10章では、イタリア隊の百人隊長コルネリウスとその親族、友人たちが福音を受け入れ、彼らにも聖霊がくだるという、重要な出来事が記されている。

 

8章でも、エチオピアの宦官の例のように「異邦人」の救いが描かれたが、ここでよりはっきりと「異邦人も救いの対象である」ことが強調される。

 

その象徴は、ペテロが夢見心地の中で見た「幻」だ。

敷布に汚れた動物などが入っていて、主がそれを食べるように言われたのだ。

 

しかし、ペテロは言った。「主よ。そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」(14-15)

 

ペテロはこの「幻」をとおして、神が異邦人をも受け入れられることを知り、コルネリウスを訪ねて福音を語った。

 

このときのペテロのメッセージも、これまでと同じく、実にシンプルだ。

 

  1. 神が遣わされたイエスは多くの良いわざを行なったが、人々はこの方を木にかけて殺した
  2. 神はこの方を三日目によみがえらせた
  3. この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる

 

さらにここで、重大なことが起きる。

 

ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。(44)

 

そして、彼らはみな、バプテスマを受けた。

 

救われるために必要なのは、キリストの「死」と「復活」、それによる「罪の赦し」を信じる、それだけだ。

死の間際の人でもできる。

これ以上かんたんなことはない。

 

勉強も、善行も、奉仕も、経験も、人格も、もちろんお金も、必要ない。

子どものように"信じる"、ただそれだけなのだ。

 

この10章と併せて読むといいのは、ガラテヤ人への手紙だ。

福音を信じるだけですべての人が救われるという真理に、あれやこれやをしなければ救われないと付け足す者たちが現われた。

パウロが、この「ほかの福音」を強く非難し警告したのが、ガラテヤ書である。

 

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(ガラテヤ3:1-2)

 

コルネリウスとその仲間たちは「みことばを聞いていた」だけで、律法の規定に励んだわけではなかった。

 

ユダヤ人も、異邦人も、主の「死」と「復活」を信じるだけで、「罪の赦し」を与えられる。

このようなすばらしい救いの道を開かれた主を、賛美しよう。

 

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(ガラテヤ3:13-14)

 

 

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