なぜわたしを迫害するのか
彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」彼が「主よ、あなたはどなたですか。」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:4-5)
9章では、いよいよ、有名な「サウロ(のちのパウロ)の改心」のいきさつが語られる。
こんなに劇的な改心も、ほかにない。
なにせサウロは、イエスの弟子たちを捕えて殺すという、恐ろしい熱意に燃えていた真っ最中だったのだ。
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。(1-2)
サウロから見れば、イエスをキリストと信じる者たちは、一人残らず“聖絶”すべき存在だった。
すべて神のためと、信じて疑わなかった。
ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。(3)
この光は、その後彼の目が見えなくなるほど強烈だった。
そして、冒頭のイエスさまとのやり取りとなる。
彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。(9)
ここを読むたびに、思う。
三日間、彼は何を考えていたのだろうと。
飲み食いもせず、おそらく誰とも口を聞くこともなく、完全に沈黙した三日間だった。
このあとサウロは、「イエスがキリストである」と証言しはじめ、「ユダヤ人たちをうろたえさせた」(22)わけだが、この三日の間、だれよりもうろたえていたのはサウロ自身だったろう。
自分がやってきたことは何だったのか。
恐怖におののき逃げ惑うイエスの弟子たちの顔。
鬼の形相で彼らを捕える自分の姿。
強烈な光。
「イエスである」の御声。
そこに、主の啓示のとおり、兄弟アナニヤが彼を訪ねて来、彼に手を置いた。
するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気になった。(18-19)
すぐさま彼は別人のように、「イエスは神の子です」(20)、「イエスがキリストである」(22)と証言しはじめる。
この記事を読みながら、あらためて思った。
わたしの「悔い改め」は、安易なものだと。
三日間飲み食いしなかったサウロの姿を、心にとどめたい。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(1テモテ1:15-16)