みな心を合わせ
これまでヨハネ、マタイ、マルコ、ルカの順で四福音書を一章ずつ読んできました。なぜヨハネ伝が最初だったのかといえば、このブログを書こうと思い立ったときに読み始めたのがたまたまヨハネ伝だった、というだけです。
今となっては、この順で良かったと思います。なぜなら、きょうから読む『使徒の働き』の著者が、先日まで読んでいたルカ伝のルカだからです。彼の文才は、やはり異色です。
主が振り向いてペテロを見つめられた。(ルカ22:61)
・・・十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。(ルカ23:23)
などの文章は、背すじが凍るような迫力があります。
『使徒の働き』では、どんな表現に出合えるか、そんな楽しみも持ちながら読み進めてみたいと思います。
彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。(使徒1:13-14)
よみがえったイエスさまは、40日に渡って、地上でご自分を現わされた(3)。
そして弟子たちに、聖霊が臨まれるときを待つようにと命じ、天に上がられた。
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(4-5)
その後、冒頭のように、弟子たちやイエスさまの家族をはじめとする120名の兄弟たちが集まって過ごしていた。(15)
「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(14)
彼らはどんな思いで、何を祈っていたのだろう。
ここに、イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちの名が出てくる。
忘れてはいけないのは、彼らは全員、イエスさまが捕えられたときに逃げ去ったという事実だ。
すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。(マルコ14:50)
彼らはそれまで、ことあるごとに「だれが一番偉いか」を議論していた。
ルカは、イエスさまが十字架につけられる前夜、「最後の晩餐」の席ですらその話題になったと記している。
また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。(ルカ22:24)
しかし、イエスさまの死と復活を目撃したいまは、だれ一人としてそんな思いにならなかった。
みな、心砕かれていたのだ。
だからこそ、12人目の弟子を選ぼうとペテロが発言したときも、全員すなおに従った。
「イエスの母マリヤ」は、どうだったろう。
自分が生み、育てたイエスが、ほんとうに神から遣わされた救い主キリストであった。
これまで「心に留めておいた」(ルカ2:51)さまざまな出来事が、すべてつながった。
そして、自分もまた救われるべきひとりの罪人として、主の前にひれ伏し、主を仰ぎ見る者となった。
砕かれた者たちだけが「心を合わせ」られることを、きょうの箇所から教えられる。
また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」(ルカ2:34-35)