彼の言うことを聞きなさい
彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」と言う声がした。(ルカ9:34-35)
イエスさまは、ご自身に従う者の心構えについて、こう教えられた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(23)
身心を鍛え、よく勉強し、よく遊び、人脈を広げ、人間性を豊かにしなさい、とは言われなかった。
「自分を捨てよ」と、言われたのだ。
その教えから8日後に、山上で御姿が変わられた。
祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセと、エリヤであって、・・・(29-30)
居合わせたペテロは、興奮して言った。
「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(33)
彼がまくし立てているうちに、雲におおわれ、「彼の言うことを聞きなさい」と御声が響いた。
ペテロは、「ここにいることはすばらしい」と、まるで自分たちだけの特別なショーを見るかのように喜んだ。
そして、「私たちが・・・造ります」と口走った。
この「私たちが」が、彼の特徴的態度であった。
それはなにも、ペテロだけではない。
このあとイエスさまがエルサレムに向かう途上で、サマリヤ人がイエスさまを受け入れなかったことに対し、ヤコブとヨハネはこう言っている。
「主よ。私たちが天からの火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(54)
「私たちが」やってやりましょうか、と意気込んだ二人を、イエスさまはたしなめられた。
「主よ」と言いながら主に聞こうとはせず、「私たちが」これをしましょう、あれをしましょう、あなたはぜひとも喜んでください、祝福してください、という態度は、わたしたちも陥りやすいところではないだろうか。
それは、「彼の言うことを聞く」よりもラクなことだ。
そして、わたしたちの心の奥に潜む、自分をより大きな者にしたいという欲望を満たすものだ。
「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」(48)
「一番小さい者」になる用意はあるか。
みなのしんがりであることに、満足する用意はあるか。
自分を捨て、自分の十字架を負い、まずなによりも「彼の言うことを聞く」備えはあるか。
いま一度、自らに問いかけてみたい。
主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(1サムエル15:22)