イエスとともに
彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかってきた。(使徒4:13)
つい数週間前、女中の言葉に震え上がって「そんな人は知らない」と言い張ったペテロ。
いまは民の指導者たちに向かって大胆に、イエスこそがキリストであると、あかしする者となった。
「なんだ、この男たちは。神学を学んだわけでもない。ただの漁師じゃないか。どうやら、ここ数年世間を惑わし、十字架刑に処せられた、あのイエスの弟子ということだぞ」
指導者たちはしだいに、「ふたりがイエスとともにいたのだ」と理解し始めた。
かつて多くの人がイエスさまについて行ったように、いまや民衆は使徒たちを支持し、その仲間に加わった。
困り果てた指導者たちは、彼らに命令する。
そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。(18)
これに対するペテロとヨハネの態度は、実にはっきりしている。
ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(19-20)
彼らの大胆な言葉を聞いた人たちの中には、「彼らがイエスとともにいたのだ」というだけでなく、いまも「イエスとともにいるのだ」ということに、思い至った者もいるのではないだろうか。
わたしたち現代のクリスチャンも、周囲の人々に対して、「イエスとともにいる」と示す存在でありたい。
それは何も、教会に所属しているとか、聖書を学んでいるとか、周囲に"伝道"しているといったことではないだろう。
表面的なわざは、人々には伝わらない。
心の奥底で真に主とともに歩んでいるかどうか、が問題だ。
ペテロはかつて、主を前にしても、「俺が、俺が」の人だった。
しかし、自らの弱さに打ちのめされ、それを赦された主の愛にふれ、徹頭徹尾主により頼み、主とともに歩む者と変えられた。
~ひとあし、ひとあし、主にすがりて、
たえず、たえず、われは進まん ~
よく知られるこの聖歌のように、ていねいに主とともに歩む者でありたい。
エノクは神とともに歩んだ。(創世記5:24)
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)