みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

私にあるものをあげよう

ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして彼の右手を取って立たせた。(使徒3:4-7)

 

その「生まれつき足の不自由な人」(2)は、毎日宮の門にすわり、人々から施しを受けていた。

そこにペテロとヨハネが通りかかったので、施しを求めた。

結果として彼は、期待をはるかに上回るものを受け取ることとなった。

 

するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。(7-8)

 

彼は、ちょっと足が痛くて歩けなかったのではない。

生まれつき歩けなかったのだ。

おそらく彼の足は棒のように細く、関節は拘縮していた。

歩くための平衡感覚は、はたらいたことすらなかった。

にもかかわらず、瞬時に躍り上がって立ち、飛び跳ねるまでに変わったのは、神の奇跡以外のなにものでもない。

 

彼ははじめ、「金銀」を期待していた。

それが自分にもっとも必要なものだと、思い込んでいた。

立ち上がって歩くなど、考えてもいなかったのだ。

 

彼の記事から思う。

わたしが自分に必要だと考えているものと、神がわたしに必要だと考えておられるものとは、大きく違うのではないだろうか。

わたしが思いもしない何かかもしれない。

 

いずれにせよ、神の与えられるものは、わたしの小賢しい考えとは別次元の、根本的な解決をもたらすものだろう。

それは、いったい何だろう。

 

ペテロはこの男について次のように証言しているが、ここにヒントがあるような気がする。

 

「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」(16)

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村