イエスがキリストであることを
そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。(使徒5:41-42)
使徒たちをとおして行なわれる神のわざは、大変な勢いで広がっていった。
民の指導者たちはますます混乱し、彼らを牢に捕らえたが、それもまた御使いの介入によって無駄となった。
むちで打たれ釈放された使徒たちは、それをもまた喜んだ。
きっと、イエスさまのみことばを強く思っていたにちがいない。
「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:11-12)
使徒たちは、脅しや暴力にひるむことなく、「イエスがキリストであることを」宣べ続けた。
「私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」(30-32)
「私たちはそのことの証人です」、この言葉はこれで三度目となる。
あとの二つも見てみよう。
「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。・・・神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(2:23-24・32)
「あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を釈放するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」(3:13-15)
使徒たちの主張は、終始一貫している。
- 神が遣わされたイエスを、あなたがたは十字架にかけて殺した
- しかし、神はこの方をよみがえらせた
- ゆえに、この方こそ約束された救い主・キリストである
判で押したように、彼らはこのことを宣言し続けた。
聖書において大事なのは、イエスの"教え"ではない。
「イエスがだれであるのか」こそが重要だ。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ16:15)
わたし自身、聖書を読み始めた当初は、赤線を引いたのはもっぱらイエスの"教え"の箇所であった。
「互いに愛し合いなさい」とか、「七を七十倍するまで赦しなさい」などの、いわば道徳訓のような言葉だ。
十字架の死や復活などは、ひとつのストーリーとしか見ていなかった。
しかし主によって心開かれ、信仰に進むにしたがって、十字架の死と復活こそが聖書の中心であり、そればかりでなく、わたし個人にとって何よりも重要であると、気づかされたのだ。
聖書とは、ほんとうに不思議な書物だ。
使徒たちは、
イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。(42)
それは二千年前のイスラエルの話であるだけではなく、きょうのあなたにとって最も重要なメッセージでもあるのだ。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)