みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

彼の顔は御使いの顔のように

議会で席についていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。(使徒6:15)

 

まるで連続ドラマの終盤のように、みなの目がステパノに集まり、彼の顔がクローズアップされて6章が終わる。

文才光る、ルカの真骨頂だ。

 

それはともかく、このときステパノは、群衆に襲われ、捕えられ、議会に引っ張り出された。

状況からいえば、恐怖におののいてもおかしくないのだが、恐れるどころか、「彼の顔は御使いの顔のように見えた」とある。

光り輝いていた、ということだ。

 

おそらくステパノは、いまこそ多くの人にイエスさまを証言できると、喜びに満ちていたことだろう。

 

「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。」(ルカ21:12-15)

 

ステパノについて、聖書はこう記す。

 

信仰と聖霊に満ちた人ステパノ・・・(5)

 

さて、ステパノは恵みと力とに満ち・・・(8)

 

しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので・・・(10)

 

ひとことで言えば、当時の初代教会の中でも、非常に優れた模範的な信者だった。

「信仰と聖霊」に満ちた人は、おのずから神の光を反映する。

 

モーセがそうであった。

 

それから、モーセシナイ山から降りて来た。・・・彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった(出エジプト34:29-30)

 

イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。(同35)

 

ここから、神と親しく交わることが、神の光を反映することにつながるとわかる。

ステパノも、そのような人物であっただろう。

 

パウロは、モーセの記事からさらに進めて、こう書いた。

 

もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。(2コリント3:7-8)

 

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(同18)

 

ステパノもパウロも、すべてを捨てて主に仕えた。

わたしたちもまた、そのような生き方をし、「主と同じかたち」に変えられたいとは思わないだろうか。

モーセのように、隠れた所にはいり、主との交わりを持とう。

 

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)

 

兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。(ピリピ3:17)

 

 

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