人の子が神の右に立っておられる
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(使徒7:55-56)
7章は、『使徒の働き』の中で、もっとも長い章である。
その大半は、議会におけるステパノの弁明だ。
彼は自分を迫害するイスラエル人たちに対し、「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。」(2)と切り出した。
そして、アブラハムから始め、ヨセフ、モーセ、ダビデと、聖書(旧約聖書)に基づいて、先祖の歴史を辿った。
もちろん、だれ一人、反論できない。
ところが51節から突然、刃を返すように、聴衆を断罪する。
「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって述べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」(51-52)
さらに、天にイエスさまの姿を見、冒頭のように発言した。
その結果、どうなったか。
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。(57-58)
恐ろしい光景だ。
あのようなことを言えば殺されるかもしれないことを、ステパノはわかっていただろう。
にもかかわらず彼は、証言せずにはおれなかった。
息を引き取る間際、彼は、自分を石で打つ者たちのために祈った。
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。(60)
生き延びれば、主のために多くの働きをすることができた。
しかし彼は、うまく言い逃れるようなことはしなかった。
ここから、はっきり言えることがある。
ステパノはこの弁明にいのちをかけていた、ということだ。
いつでも死ぬ覚悟ができている、こういう人を「神の人」というのであろう。
ところでルカは、ここでさりげなく重要人物を登場させている。
証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。(58)
このときのサウロ、のちのパウロは、きっと憎悪に満ちた顔をしていたにちがいない。
その彼も、主との出合いにより、次の言葉を残すほど大きく変えられることになる。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。・・・私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。(ピリピ2:21・23)