みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

散らされた人たち

散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。(使徒8:4)

 

ステパノが殺害されたその日、エルサレムの兄弟姉妹たちに対する大迫害が起こった。

逃れた者たちは、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた」(1)

 

しかし、これがきっかけとなり、異邦人伝道の道が開かれたのだから、神のなさることはすばらしい。

 

ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。(5)

 

ピリポをはじめ兄弟姉妹たちは、異邦人に対してどのようにイエスさまを伝えたのだろう。

イスラエルの神が、異邦人をも愛し、彼らのためにもキリストは死んでよみがえったのだと、伝えたのだろうか。

 

8章の後半では、エチオピアの宦官の救いが語られる。

ここでもピリポが活躍する。

 

さて、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。そこで、ピリポは立って出かけた。(26-27)

 

御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい。」と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので・・・(29-30)

 

「主の使い」や「御霊」の語りかけを、ピリポは聞いた。

「そこでピリポは・・・」とあるとおり、その都度、彼は間髪置かず従っている。

 

このとき、ピリポが少しでも遅れていたら、宦官は救われなかったかもしれない。

馬車に遭遇できなかったかもしれないし、たとえ追いついても、キリスト受難の預言であるイザヤ書53章を読む声は聞こえなかったかもしれない。

そうしたら宦官は、アフリカ方面の救いの初穂となることはなかった。

 

主に従う備えはできているか。

ピリポのあり方をとおして、そのような問いを考えさせられる。

 

宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った。(39)

 

 

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