塩が塩けをなくしたら
「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」(ルカ14:34-35)
台所に置いてある塩が塩けを失っていたら、何かに使おうとするだろうか。
「あ、もうこれ、だめね」と、すぐに捨ててしまうだろう。
イエスさまは、どういった意味でこのたとえを用いられたのか?
直前のことばを読んでみる。
「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」(33)
イエスさまは、「わたしの弟子」の条件について語っておられる。
それは、「自分の財産全部を捨てる」ことだ。
つまり、文脈からみると、「塩けをなくした塩」とは、自分の財産全部を捨てる覚悟のない者を指している。
そういう者は、役に立たないので、外に投げ捨てられる。
なんと厳しいお言葉だろう。
さらにその前を読んでみると、そこでもイエスさまはたとえ話をされている。
盛大な宴会に招待された人たちが、みな、理由をつけて断るというのだ。
「畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。」(18)
「五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。」(19)
「結婚したので、行くことができません。」(20)
一人目は、新しいビジネスを理由に断った。
二人目は、新しい資産を理由に断った。
三人目は、結婚を理由に断った。
すべて地上のことだ。
イエスさまは、あるときつぎのように語られたことがある。
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)
天の御国とは、持ち物をすべて売り払って買うほどの価値がある、ということだ。
先の三名は、その価値をまったくわかっていないことになる。
宴会のたとえに続いて、イエスさまはこう言われた。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(26-27)
わたしの「宝」は、どこにあるか?
何に「価値」を見いだすのか?
ほんとうの「価値」にたいして、目が開かれるよう祈ろう。
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:7-8)