ユダヤ人の王
彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。(マルコ15:25-26)
イエスさまは、大祭司の質問にこう答えておられる。
大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。」(マルコ14:61-62)
その後、大祭司の家からピラトのもとに回されたときには、こう答えられた。
ピラトはイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」(2)
つまり、イエスさまは、ご自分が「キリスト」であり、「ユダヤ人の王」であることを、はっきりと公言された。
結果的には、そのことが十字架にかけられる罪状となった。
当時イスラエル人は、聖書(ここでは旧約聖書)で予言された救い主キリストを待ち望んでいた。
彼はユダヤ人の王としてイスラエルを再興し、ローマ帝国の圧政から解放してくれるはずと、期待していた。
そしてイエスさまが現れたとき、その数々のみわざや教えにふれ、この方こそ来たるべき「キリスト」ではないかと考えた。
ところが、イエスさまは、いつまでたっても軍を編成するようすもない。
ローマに立ち向かう演説をするでもない。
それどころか、自分は十字架にかけられ殺されるとまで、話しだされた。
キリストがイスラエルを再興すると信じていた弟子たちにとって、そのような話がピンと来なかったのも無理はない。
さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。そこで彼らは、そのおことばをこころに堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。(マルコ9:9-10)
・・・イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。(マルコ9:31-32)
イエスさまを裏切ったユダも、(これは自分の期待していたお方ではない)と失望して、裏切りに走ったともいわれる。
弟子たちは、復活したイエスさまに会ってもまだ、つぎのように言っている。
「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(使途1:6)
弟子たちを含め当時のユダヤ人にとって、「救い」とはイスラエル国の再興を意味していたのだ。
そのユダヤ人から見れば、イエスは「ユダヤ人の王」と自称しただけの人騒がせな人物で、聖書の教えをくつがえすような危険人物だった。
そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。(ヨハネ19:21)
青年サウロも、そう信じて疑わず、キリスト信者を迫害してまわった。
しかし主の恵みによって目が開かれ、聖書の語る「救い」の全貌を知るところとなったとき、彼は使途パウロとして生まれ変わった。
この方は「ユダヤ人の王」であると同時に、「全人類の王」でもあると知ったのだ。
こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。・・・彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。(ローマ11:26・31-33)