みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

目をさまして、祈り続けなさい

それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14:37-38)

 

捕えられる直前、イエスさまは恐れもだえながら祈られた。

エスさまの地上の生涯で、もっとも苦しい時だった。

しかし、弟子たちは、眠気に勝てず、眠っていた。

 

ペテロは、イエスさまをぜったいに裏切らないと、大見えを切ったばかりだった。

彼の心は、たしかに燃えていたのだ。

 

祈るイエスさまを見つめながら、彼はこう思ったかもしれない。

(なに、イエスさまのことだ、いざとなれば恐るべき御力をもって敵をぎゃふんと言わせられるだろう。)

(イエスさま、そんなに恐れなくても、このペテロがついております、かならず助けますから)

(イエスさま、大丈夫です、だいじょ・・・ムニャムニャ)

 

エスさまは、「祈り続けなさい」と言われた。

一日に最低3回祈れ、ではない。

「祈り続けなさい」。

 

エスさまの生活は、想像もできないほどの“祈りの生活”だっただろう。

福音書の中にイエスさまが祈っておられる記述はたくさんあるが、それ以外の時間は祈っておられなかったわけではない。

むしろ、イエスさまの言動すべてが、祈り、すなわち父なる神との交わりによって導かれていた。

 

まるで伏流水のように、イエスさまの生活の奥底には、つねに祈りが流れていた。

エスさまの祈る姿は、その流れがおもてに表れたにすぎない。

 

それほどイエスさまにとって、祈り(父なる神との交わり)はすべてだった。

その交わりが断ち切られる、これをイエスさまは恐れたのだ。

 

それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(35-36)

 

少しでも、イエスさまの“祈りの生活”に近づきたい。

主よ、わたしの祈りのあり方を変えてください。

 

絶えず祈りなさい。(1テサロニケ5:17)

 

 

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