いつも、あなたがたとともにいます
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
復活のイエスさまは、女たちに最初に姿を現わされた。
すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。(9)
わたしは、この箇所が大好きだ。
「おはよう」。
なんとやさしいお言葉だろう。
この言葉は、新改訳のほかに、新共同訳でもそう訳されている。
ほかには、「平安あれ」(口語訳)、「安かれ」(文語訳)、英語では、「Greetings」(NIV)、「Rejoice!」(NKJV)などとあるが、個人的には「おはよう」が一番好きだ。
「ひれ伏せ」でも、「我を拝せよ」でも、「はきものを脱げ」でもない。
「おはよう」。
親しいあいさつを、イエスさまのほうから語りかけられた。
イエスさまとは、そういうお方だ。
そして、弟子たちに対しては、こう語られた。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(18-20)
いっさいの権威をお持ちの方が、世の終わりまで、いつも、ともにいてくださる。
これ以上のことは、ないのではないか。
主は、以前、これと逆のことを言われたことがある。
「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」(マタイ26:11)
このときは、肉のからだに縛られておられた。
しかしいまは、霊のからだによみがえり、いつでも、どこでも、ともにいてくださる。
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(1ペテロ3:18)
イエスさまは、いまこのときも、わたしたちとともにいてくださる。
目に見えず、触ることも、感じることもないが、間違いなくともにおられる。
イエスさまが、一度でも偽りを言ったことがあっただろうか?
主は、つねに本気で、真実だ。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:31)
信仰をもって主を見上げ、心を打ち明けようではないか。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)