みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

この方はまことに神の子であった

百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。(マタイ27:54)

 

エスさまが十字架にかけられたとき、全地は暗くなった。

息を引き取られたとき、神殿の幕が避け、地が揺れ動いた。

見ていた人々は、「ああ、この方は、やはりただ者ではなかった。まことに神の子であった」と、あらためて胸を打たれた。

 

彼らの言葉は、半分当たって、半分間違っている。

 

エスさまが神の子であることは、そのとおりだ。

しかし、「神の子であった」と、“過去形”で言うのは違う。

 

彼らは、思った。

「ああ、惜しい方を失くした。ほんとうに素晴らしい、偉大な方であった。最後まで、神を仰ぎ、自らの生き方を貫き通した、たぐいまれな方だった。しかし、すべて終わった」と。

 

つまり、イエスさまが何度も語っておられた「復活」を、信じてはいなかった。

ルカ伝には、こう記してある。

 

また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。(ルカ23:48)

 

エスさまは亡くなられたが間違いなく三日後によみがえられるはずだ、と希望を持っていた人はいなかったのだ。

 

十字架上で苦しんでおられるとき、人々はののしってこう言っていた。

 

「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」(40)

 

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。」(42)

 

彼らにとっては、神の使いがやって来て、イエスさまが十字架から解放されることが、考え得る最大の神のわざであり、神の子の証明だった。

しかし、最大の神のわざと、神の子である証明は、「死後の復活」にこそあったのだ。

 

人類全体に対する、そしてわたしたち一人ひとりに対する神の怒りは、二千年前のゴルゴタの丘で、まるで稲妻が避雷針に落ちるように、十字架上のイエスさまに落とされた。

罪の贖いは、完了した。

 

そして、わたしたちもまた新しいいのちに歩むために、主はよみがえられる。

 

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(1ペテロ3:18)

 

 

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