そんな人は知らない
それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。(マタイ26:72)
イエスさまは、捕えられる直前に、弟子たちに言われた。
「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。」(31)
そのとき、いつものように、ペテロがまっさきに答えた。
「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(33)
これが、ペテロという人だった。
「私は」「私が」と、つねに「私」が主語だった。
すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マタイ17:4)
イエスさまのお言葉どおり、弟子たちはみな逃げ出し、ペテロは三度も主を「知らない」と言った。
このあと、イエスさまは十字架で殺される。
三日目によみがえったあと、弟子たちに姿を現わされ、ペテロの傷を覆うかのように、三度、「あなたはわたしを愛するか」と尋ねられた。
そのときのペテロの主語は、もう、「私」ではなかった。
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン、あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」(ヨハネ21:15)
「あなたが」ご存知です。
「私」はまったくあてにならない、いっさいは「あなた」が知っておられます、と。
自らの重心が「私」から「主」に移っていることが、見てとれる。
重心が「主」ではなく「私」にあるとき、わたしは安定を欠き、疲れやすく、イラつくことが多くなる。
しかし、「私」ではなく「主」に重心が移ると、肩の力が抜け、心は軽くなり、平安に満たされる。
いま、わたしの重心はどうか。
新しくされたペテロの信仰を、見習いたい。
ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(2コリント1:9)
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:30-31)