みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

主の通られる道をまっすぐにせよ

ご訪問くださり、ありがとうございます。

このブログでは、一日一章ずつ、聖書を読むなかで考えさせられたことを書いています。

自分勝手な解釈に流れることを恐れますが、同時に、正しい解釈とか、正当な読み方といったものに縛られたくないとも思っています。

なぜなら、みことばは食べるものであり、食べものは味わっていのちの糧とするためにあるのであって、切り刻んで研究するためにあるのではないからです。

きょうから、マルコの福音書に入ります。

また新しく、生き生きとイエスさまを見上げることができるよう、聖霊をとおして主が導いてくださいますように。

 


 

「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:3)

 

他の福音書とおなじく、マルコ伝においても、まずバプテスマのヨハネが登場する。

彼は旧約聖書において、その出現を約束された人だった。

彼自身も、こう語っている。

 

彼(ヨハネ)は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)

 

彼は、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」と叫ぶために世に現われた。

「主の道を用意し・・・」とは、どういう意味か?

それは、彼のメッセージに集約されている。

 

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)

 

ヨハネが授けたバプテスマは、「悔い改めのバプテスマ」(4)だった。

「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」とは、わたしたちが悔い改めることにほかならない。

罪を告白し、それから離れ、主に向きなおることだ。

 

主の道をふさごうとする固い岩や、のさばるいばらは何だろう?

このわたし自身だ。

自分の自我、これが主が通られるのを妨げる。

 

もとになったイザヤ書のみことばを、見てみたい。

 

主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。(イザヤ40:3-4)

 

わたしたちが主の前に悔い改めるとき、深い傷は癒され、高慢な心は砕かれる。

 

このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。(同5)

 

そのとき、「主の栄光が現わされる」。

つまり、主のご臨在があきらかになる。

すばらしいことではないか。

 

主にとって、わたしはきょう、通り良い道だろうか。

それとも、歩きにくい道だろうか。

 

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)

 

 

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