それを、ここに持って来なさい
しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」(マタイ14:17-18)
イエスさまが、五つのパンと二匹の魚で、男だけで五千人、女性と子どもを入れるとその倍近くの人たちを満腹にしたという奇蹟の記録だ。
この「五千人の給食」は、イエスさまがなさった奇蹟のなかでも四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のすべてに記載されているという点で、珍しい。
それほど重要な意味をもつ出来事ということか。
弟子たちは、「もう暗くなる時間だ。こんな辺ぴな所に、こんなに人が集まってしまって、早く帰らせないと・・・」と心配した。
至極当然の配慮である。
これに対しイエスさまは、こう言われた。
「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」(16)
弟子たちの当惑する姿が、目に見えるようだ。
店もない、人手もない、そもそもそんなお金もない。
そんなことできるわけない・・・。
このときイエスさまが、パンはどれくらいあるか確認するよう指示された。(マルコ6:38)
「食べ物を持っておられる方は、いらっしゃいますか」と呼びかけながらも、弟子たちは(こんなことして、何になるのか)と空しい思いを抱いたことだろう。
結局集まったのは、少年が持っていた五つのパンと二匹の魚だけ。
「こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」(ヨハネ6:9)と、アンデレが言ったのも無理はない。
しかし、みわざはここから始まった。
イエスさまにとっては、それで十分だった。
いや、何もなかったとしても、イエスさまなら、みなを満腹させることができたにちがいない。
この話は、取るに足りないほどのわずかなものでも、主のもとに差し出すならば、主は考えられないようなみわざをなされる、ということを伝えたいのではないか。
くり返すが、何もなくても、主はできたはずなのだ。
しかし、主はパンがどれくらいあるか見てくるよう指示をされ、言われた。
「それを、ここに持って来なさい。」(18)
わたしたちは、自分をみて、がっかりする。
自分には、これっぽっちしかない、と。
もっと賜物があれば、財力があれば、人気があれば、健康があれば、主のためにいろいろできるのに・・・。
しかし、主にとっては、わたしたちがどれくらい持っているかは、問題ではない。
わたしたちが、主のもとにわずかなものを持って来るかどうかが、問題だ。
ヘンに卑屈になるのは、やめよう。
主にとっては、それで十分なのだから。
こうしてわたしをためしてみよ。
――万軍の主は仰せられる。――
わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3:10)