宮より大きな者
「また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」(マタイ12:5-6)
ひもじくなった弟子たちが、安息日にもかかわらず、麦畑の穂を摘んで食べた。
それを見たパリサイ人がすかさず、イエスさまを糾弾した場面だ。
ここは福音書のなかでも、個人的にとても好きな箇所だ。
まず弟子たちの、のびのびした姿がいい。
律法に無知だったのか、それともイエスさまとともにいて解放されていたのか、なんとも自然体である。
そして、パリサイ人に対するイエスさまのお答えも嬉しくなってくる。
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」(7-8)
パリサイ人は聖書の字面だけを読み、イエスさまはその真意を説いておられる。
大切なことは、「何をしているか」ではなく、「だれといるか」だ。
「宮よりも大きな者」であるイエスさまとともにあるとき、わたしたちは律法の字面から解放され、自由の道を歩むことができる。
そしてイエスさまは、そのようなわたしたちに向かって手を差し伸べて言われるのだ。
それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(49-50)