みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

天の御国の奥義

すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
エスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」(マタイ13:10-11)

 

マタイ13章には、イエスさまが話された「たとえ話」がたくさん出てくる。

種蒔きのたとえ、毒麦のたとえ、からし種やパン種のたとえ、などだ。

 

そこで弟子たちがたとえ話をされる理由を訪ねたのが、冒頭の聖句。

エスさまは、「天の御国の奥義」をたとえているのだと、答えられた。

 

たしかに、ここにあるたとえ話はどれも、「天の御国」について語られている。

 

「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て・・・」(18-19)

 

「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。」(24)

 

「天の御国は、からし種のようなものです。」(31)

 

「天の御国は、パン種のようなものです。」(33)

 

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。」(44)

 

「天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。」(45)

 

「天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。」(47)

 

 イエスさまが知らせようとされたのは「天の御国」であり、それこそがイエスさまが来られた目的そのものだ。

エスさまは、救いを完成するために、「天の御国」からこの地上に人となって来られた。

エスさまにとっては、この地上は一時的な住まいに過ぎず、目標はつねに「天の御国」にあった。

 

しかし、地上に生きるわたしたちは、しばしばこの地上の世界がすべてであり、それゆえに心騒がせ、真理に対して盲目となっている。

 

「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(22)

 

主よ。

わたしの目を「天の御国」に対して開いてください。

目に見える地上がすべてだとうそぶくサタンの策略に騙されないように、お守りください。

長いと思える地上の歩みも、ほんの一瞬であり、すべては「天の御国」に至る準備であることを、より理解できるようお助けください。

御名によって祈ります。アーメン。

 

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)

 

 

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