神の前に富まない者
「しかし、神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ12:20-21)
身内での遺産相続争いは、人間の卑しさがあぶり出されるようで、醜いこと極まりない。
それは、いまも昔も変わらないようだ。
群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。(13)
彼は、兄弟との遺産をめぐるトラブルで困っていた。
「そうだ。神の人であるイエスさまなら、正しく裁いてくださるに違いない」と考えて、直訴した。
ところが、イエスさまのお答えは、思いもよらぬものだった。
すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(14-15)
人間的な見方をすれば、おそらく彼は間違ってはおらず、遺産を分けようとしない兄弟のほうに問題があったと思われる。
しかし、彼がかざしていた「正義」の札をイエスさまは取りのけ、その奥に「貪欲」が隠れていることを明らかにされたのだ。
それからイエスさまは、たとえ話をされた。
大豊作に気を良くした金持ちが、倉を大きく立て替えて、「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」(19)と言う。
しかし冒頭のことばように、彼のいのちはその夜取り去られる、という話だ。
「老後の必要資金は二千万円」と金融庁が報告して大騒ぎになったのは記憶に新しいが、それくらいあったら「安心して、食べて、飲んで、楽しめ」るというのだろうか。
いずれにせよ、人はつねに「何を食べようか」「何を着ようか」と心配する生き物のようだ。
「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたに必要であることを知っておられます。」(29-30)
いつか天の御国に行ったとき、「ああ、イエスさまの言われたことは、すべて本当だった。何も心配しなくてよかった」と思うだろう。
イエスさまは、「神の前に富む」生き方について、こう語られた。
「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」(33-34)
自分のために集めるなら、地上ではなく、天に宝を積み上げよう。
地上の必要は、天の御父におまかせしよう。
きょう、わたしは、どこに目を向け、どう生きるだろうか。
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8:9)
ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。(2コリント12:15)