みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

安息日にいやされたのを憤って

すると、それを見た会堂管理者は、イエス安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」(ルカ13:14)

 

18年間も腰が曲がったままの女を、イエスさまはいやされた。

 

エスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。(12-13)

 

ところが、その日は安息日であったため、会堂管理者が「ダメだ、ダメだ」と割って入り、群衆に向かって冒頭のように呼びかけたのだ。

 

彼の言葉には、イエスさまの前で自分を良く見せよう、あわよくばほめてもらおう、といった魂胆が見え隠れする。

エスさまは、それを見抜いて言われた。

 

「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」(15-16)

 

会堂管理者の頭の中は、「禁止事項」でいっぱいだった。

人間とは不思議なもので、自分が「禁止事項」にとらわれていると、きまって周囲にも監視の目を向けるようになる。

 

彼は律法をよく知っていたかもしれないが、それはあくまでも「文字」として知っていたにすぎなかった。

エスさまは、律法を「文字」としてではなく、人間に対する「神の愛」のあらわれとして示された。

 

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」(マルコ2:27)

 

パウロも、改心する前は筋金入りの律法主義者であったが、主と出合い、目が開かれてからは、律法を「文字」ではなく「神の愛」のあらわれとして読むようになった。

 

モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。(1コリント9:9-10)

 

同じことばでも、どう読むかによって、信仰のあり方が大きく変わってくる。

わたしもまた、律法を「文字」ではなく「神の愛」のあらわれとして読みたいと、切に思う。

 

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」(出エジプト20:8-10)

 

 

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