子どもたちにはその義務がない
・・・家にはいると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」
ペテロが「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。」(マタイ17:24-26)
宮の会計係がペテロに、「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」(24)と質問した。
そのときのペテロとイエスさまの会話だ。
このあとペテロに、魚を釣って、その口にあるお金を納めるよう指示された。
多くの人がそうかもしれないが、わたしは、税金の期日がくるたびに、(ああ、魚を釣って納められたらなあ・・・)と、ここを思いだしてしまう。
それはともかく、きょう注目したいのは、「子どもたちにはその義務がない」というイエスさまのお言葉だ。
べつに税金を逃れたいからではないが、なんだか嬉しくなるみことばだ。
この言葉には、自由がある。
重荷からの解放がある。
父なる神の愛のなかで、のびのびと過ごす子どもたちの喜ばしい姿が見える。
先日学んだ箇所が、重なってくる。
そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。(マタイ12:1)
このときもイエスさまは、「宮」について語られた。
「また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」(同5-6)
ご自身を「宮より大きな者」とされ、さらにこう続けられた。
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」(同7)
父なる神は、万物の創造主だ。
そのお方が、わたしたち“子ども”に、あれやこれやの「いけにえ」を要求されるとは思えない。
金品、犠牲、形式的従順など。
御父は、それよりも「あわれみ」、すなわちわたしたちからの「愛」を期待しておられる。
子どもが、親の愛を疑い、言うことを聞かないと怒られるから「いい子」になっているとすれば、それは親にとって淋しいことだ。
神のひとり子イエスさまは、父なる神に徹頭徹尾従われた。
しかしそれは、御父が怖かったからではない。
愛と信頼によって、結ばれていたがゆえだ。
わたしは、どうだろう?
怖いから、そうしないといけないから、といった動機が隠れていないか。
それは「いけにえ」の世界だ。
そうではなく、神様に愛されるがゆえに、そして神様を愛するがゆえに、「神の子ども」としてお仕えしていきたいものである。
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。(5)
キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。(ガラテヤ5:6)