みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

朝の食事

エスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。(ヨハネ21:12)

 

よみがえったイエスさまが、お姿を弟子たちの前に二度現わされてから、またしばらくの時が経った。 

夜通し漁に出たが収穫はなく、明け方頃、落胆しながら戻りかけたとき、岸べにイエスさまが立たれた。

 

エスさまのほうからかけられた言葉は、とても優しい。

 

エスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」(5)

 

そして主のおことばどおり、舟の右側に網をおろしたところ、153匹もの魚が獲れた。 

陸にはすでに、炭火と魚とパンが用意されていた。(9)

そこにいま獲れた魚を加え、イエスさまは弟子たちに与えられた。

 

「まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」(ルカ12:37)

 

エスさまは、このみことばどおりのことをしてくださったのだ。

 

朝の湖畔での、静かで、祝福された時間。

まるで一枚の絵だ。

 

絵といえば、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があまりに有名なためか、十字架刑直前の食事が弟子たちとイエスさまの最後の食事と思われがちだ。

しかし実際には、きょう読んでいるこの復活後の湖畔の食事が、弟子たちとイエスさまの最後の食事である。

 

わたしは、ここにも素晴らしい意味があると思う。

 

朝は、始まりのときだ。

光が差し込む、希望のときだ。

朝食は、これからはたらく力の源だ。

いまから、始まるのだ。

それは、最後ではなく、最初だ。

 

ペテロはこのあと、イエスさまから三度「わたしを愛しますか。」と問われた。

三度主を「知らない」と言った、その傷をひとつひとつ覆うかのように。

なんとお優しいことだろう。

 

ペテロにとっても、これがスタートだったのだ。

 

「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9:4)

 

あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。(ローマ13:11-12)

 

 

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