聖霊によって身重になった
こんにちは。このブログを運営しております、みつばさです。
何気なく始めたこのブログも、訪問してくださる方がちょっとずつ増えてきて、とても嬉しいです。ありがとうございます。
長かった梅雨も明けましたね。一気に暑くなりそうですが、ブログのほうはたんたんと続けて行けたらと思っています。
ここまでヨハネの福音書から1章ずつ、思わされたことを書いてきました。きょうからは、マタイの福音書を読んでみます。聖書は何度読んでも新しく、まさしく“汲めども尽きぬ泉”のようです。引き続き、よろしくお願いいたします。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。(マタイ1:18)
キリストの「処女懐胎」は、「復活」と同じくらい、容易には受け入れがたいできごとだ。
たいていの人にとって、これらはたんなる“伝承”にすぎない。
受け入れるべきは、キリストのさまざまな道徳的教えであって、処女懐胎だの死後の復活だのは、問題にもならない。
ところが、主を信じる信仰が与えられると、これが逆転する。
イエスさまが聖霊によって処女マリヤの胎に宿られたこと、死んで三日後に復活されたことが、そのさまざまな教え以上に、はるかに重大な意味を持ってくるのだ。
なぜならば、彼が何を教えられたかよりも、彼が何者であるかこそが、もっとも重要だからだ。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ16:15)
処女懐胎も復活も、科学的にはけっして認められない。
どちらも歴史上、ただ一度きりのできごとだから。
ただ一度きりのできごとは、“再現性”が不可欠な科学の世界では実証不可能なのだ。
ゆえに、それは信仰の対象となる。
わたしは約30年前に信仰を持ったが、当時、ある方とこんな会話をした記憶がある。
「では、聖書に書いてあるいろいろな奇跡も、そのまま信じるんですか」
「はい、そうです」
「ほお、信仰とはたいしたもんですねえ」
なかばあきれ顔で言われたのだが、わたしも信仰を持って数日しか経っていなかったので、いま思えばよくあんなにはっきり答えたものだと、われながら感心する。
信仰を持つとは、自分でつかむというよりも、バタンと倒されるのに近い。
小賢しい頭でこねる“ヘリクツ”を、からだごと吹き飛ばされるのだ。
そのとき、ある意味で、奇跡が正しいかどうかは問題でなくなる。
全能の神なら、それくらいできて何の不思議もない、と思うようになる。
そしてそれは、実に爽快なものなのだ。
「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」(マタイ21:44)