幼子を見、ひれ伏して拝んだ。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。(マタイ2:10-11)
はじめて聖書にふれた頃、なんとも不思議な本だと奇異に感じたことを覚えている。
イエス・キリストの伝記が4つも並んでいるのは、なぜ?、と。
しかも、それぞれで内容が異なったり、同じことが書いてあったりする。
一つにまとめたほうが良かったのではないか、と思ったのも無理はない。
しかし、これも神の深いご配慮でなされたこと。
きっと意味があるはずだ。
イエスさまの誕生については、四福音書のうち、マタイとルカに詳しく、マルコとヨハネはふれていない。
さらに、マタイ伝には「東方の博士たち」が幼子イエスを訪ねたことが記され、ルカ伝には「羊飼いたち」が訪ねたことが記されている。
このへんは時系列的に整理してまとめたほうが・・・などと、まだ考えたがるのは、浅はかな人間の見方なのだろう。
冒頭の句の「幼子」であるが、わたしの持っている聖書の注釈では、「赤ん坊を意味する言葉」とされており、赤子ととらえて差し支えないとの解説がある。
一方、ルカ伝の羊飼いたちの訪問では、「みどりご」という言葉になっている。
そして急いで行って、マリヤとヨセフ、飼葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当てた。(ルカ2:16)
英語の聖書でも、博士たちの訪問では「young child」「child」が使われ、羊飼いたちの訪問では「babe」「baby」などとなっている。
いずれにせよ、博士たちが訪ねたときは、イエスさまは、赤子、または幼子といえるくらいのお姿だったのだろう。
若いヨセフとマリヤは、どんな顔で育てていたのだろう。
幼子が笑った、寝返りをうった、ハイハイできた、つかまり立ちした、あっ転んだ・・・・、いまのわたしたちと同じく、はじめての子を授かった親として、喜び、ハラハラし、刺激的な日々だったにちがいない。
赤子は、その家の祝福だ。
いるだけで笑顔が増える。
しかし、当時のベツレヘムは、暗転した。
新たな王の出現を恐れたヘロデ王が、2歳以下の男の子をひとり残らず殺す命令を下したのだ。(16)
恐ろしい、おぞましい光景だったろう。
親はもちろん、その子らの兄姉にとっても、忘れがたいできごとになっただろう。
子どもを失った親たちは、数十年後にイエス・キリストの噂を聞いたとき、どう思ったのだろうか。
救い主の誕生は、はじめから当時の世界に大きな衝撃を起こしたのだ。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:6-7)