あなたの家を思う熱心が
それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたを嘲る者たちの嘲りが、私に降りかかったからです。(詩篇69:9)
読んだ瞬間、ああ、このみことばはここにあったのか、と思った。
この69篇はあまり印象に無かったのだが、なんと三箇所も福音書に引用されている。
一つ目は、9節の前半だ。
あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし・・・(9)
(イエスは)宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。(ヨハネ2:14-17)
いわゆる「宮きよめ」の記事だ。
イエスさまは、神の家が人間の商売(欲望)の家になっていることに、我慢ならなかったのだ。
二つ目は、同じく9節の後半だ。
・・・あなたを嘲る者たちの嘲りが、私に降りかかったからです。(9)
引用してあるのは、ローマ人への手紙だ。
私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。(ローマ15:2-3)
パウロは信仰の模範として、キリストの犠牲的なあり方を示した。
三つ目は、21節だ。
彼らは・・・私が渇いたときには酢を飲ませました。(21)
これは直接引用されているわけではないが、十字架上のイエスに関する重要な“メシア預言”となっている。
それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海面をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。(ヨハネ19:28-30)
マタイの福音書によると、このときイエスさまはほとんどぶどう酒を飲もうとはされていない。
苦しみを和らげる鎮静作用を拒まれたのだ。
こう見てきて、これら三箇所には共通することがあると気づいた。
それは、“自分(肉)を喜ばせない”ということだ。
わたしはイエスさまのような熱心さをもって、神の宮である自分のからだをきよく扱おうとしているか。
わたしはイエスさまのような犠牲的精神で、自分ではなく隣人を喜ばせようとしているか。
そしてイエスさまは、人間の罪を贖うため、極限までの苦しみを味わわれた。
イエスさまの心を、少しでも、わが心とできますように。
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16:24-25)