みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

すでに受けたと信じなさい

「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)

 

わたしは、クリスチャンになる前の二十歳前後の頃、キリストのことばをわずかではあるが知っていた。

これは、そのひとつだ。

 

当時流行り、わたしも熱心に読んだ自己啓発書、『マーフィーの潜在意識の法則』シリーズで、よく引用されていたのだ。

 

かんたんにいうと、「自分はこうなる」「自分にはこういうことが起きる」と念じ、その意識が潜在意識にまで落とし込めたなら、かならずそのとおりに実現する、といった「法則」だ。

 

したがって、このイエスさまの言葉は、まさにうってつけだったと思われる。

なんせあのキリストも教えたほどの永遠の真理です、というわけだ。

聖書のことばは、扱い方しだいで、どうにでも利用できるという実例だろう。

 

よく読むと、イエスさまは、こうはじめておられる。

 

「神を信じなさい。」(22)

 

つまりイエスさまは、「神との交わりにおいて」ということを大前提として示された。

神を信じ、神との交わりのなかで、生まれてくる祈りだ。

 

先の自己啓発書において信じられているのは、「神」ではなく「法則」だ。

「神」を信じるか、「法則」を信じるか。

両者は似て非なるものであり、根本的に異なる。

 

使途ヨハネは、つぎのように書いた。

 

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(1ヨハネ5:14-15)

 

この箇所は、きょうのみことばの最良の解説になっている。

潜在意識が実現するのではない、「神が聞いてくださる」ことが重要だ。

その願いが「神のみこころにかなう願い」かどうかが、重要だ。

 

信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ14:23)

 

信仰、すなわち神様との交わりから出ていないことは、みな罪だといわれている。

そのことをわきまえた上で、みこころにかなう祈りをささげる者となりたい。

 

そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」(ヨハネ11:41-42)

 

 

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