なぜ主を試みるのか
民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。(出エジプト17:2)
旅を続けるイスラエルの民。
レフィディムという所には飲み水がなかった。
そこで上のように、民はモーセに迫った。
民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」(3)
モーセは、彼らの態度は「主を試みる」ものだと言っている。
主は約束を与えられた。
しかし、自分たちの思いとは違い、むしろ状況は悪化した。
それに対して不平を言うのは、「主を試みる」ことだと。
民の言い分もよくわかる。
しかし、そこには主への信頼はない。
それで、彼らはその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。(7)
彼らは、まず主の前に静まり、主の約束と御力に信頼して、主のみわざを待つべきだった。
怒りにまかせて不平を言うのではなく、「主よ。飲み水がありません」と言うべきだった。
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。(ヨハネ2:3)
姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(ヨハネ11:3)
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」(ヨハネ21:5)
主はすべてご存知だ。
目の前の危機や苦難は、主の栄光を体験する前兆なのだ。
耐え忍び、主に信頼しよう。
「さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。(6)