混じって来ていた者たち
彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。」(民数記11:4)
ここでは、イスラエルの民の不信仰のようすが描かれる。
さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめき叫んだ。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。(1-2)
民は、うつむきながらブツブツ言ったのではない。
「繰り返し激しく不平を言った」のだ。
なんということだろう。
あれほどの救いを体験しながら、救い出してくださった主に向かって激しく不平を言った。
モーセの祈りによって、いったんは主の怒りがおさまった。
が、今度は、「彼らのうちに混じって来ていた者たち」が火種となり、再び民の不平が爆発した。
「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」(4-6)
聖書はさらりと記しているが、「彼らのうちに混じって来ていた者たち」が発端となったことが引っかかる。
彼らは、出エジプトの際にイスラエル人といっしょに出てきた者たちだ。
使用人のような人が多かったのだろうか。
想像するに、彼らが、「ああ、あなたたちの神はひどいじゃないか。こんな荒野に連れ出して。肉もなけりゃ、魚もない。エジプトのほうがよほど幸せだったじゃないか」とけしかけたのだ。
わたしは、この「混じって来ていた者たち」が自分の内にもいることを思い、ぞっとする。
それは、わたしが生まれながらに持っている「肉なる人」「古い人」だ。
この「古い人」は言う。
「世の人を見ろ。神など信じなくても、あんなに幸せそうに生きているじゃないか。あんなに成功しているじゃないか。お前は、救われたと言いながらどうなんだ」
彼が根差しているのは、「欲望」だ。
主は怒りを燃やしながらも、うずらの大群を送り、民に飽きるほどの肉を食べさせられた。
そのうえで、きちんとさばきを行われた。
肉が彼らの歯の間にあって、まだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打たれた。(33)
わたしの内の「混じって来ていた者たち」に、よくよく注意しよう。
だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。(ヘブル12:15)