だれにもまさって柔和であった
モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。(民数記12:3)
モーセの兄アロンと姉ミリアムの二人が、モーセに難癖をつけた。
そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女を妻としていたからである。彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか。」主はこれを聞かれた。(1-2)
後でミリアムが皮膚の病におかされるというさばきを与えられたことから、首謀者はミリアムのようだ。
「ねえ、アロン。あなた、兄のくせにいまの立場でいいの?弟の言いなりじゃないの」
「ああ、まあそうだが、仕方ないではないか」
「神は私たちにも語りかけられたじゃないの。同等であってしかるべきよ。モーセったら、外国人をめとったりして、ちょっと浮かれてるんじゃないかしら」
と、そんな感じだったかもしれない。
そして、2節のようにモーセに詰め寄った。
主はこれを聞かれた。
とある。
主は、すべての言葉を聞いておられる。
わたしたちの言葉に混じるほんの少しの誇りの若枝を、主は聞かれる。
モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。(3)
印象的な一文だ。
当時地上にどれほどの数の人が生きていたのかわからないが、イスラエルの民だけでも二百万いたと言われる。
その「だれにもまさって柔和」というのが、主の判断だ。
「柔和」という言葉は、以前の新改訳では「謙遜」と訳されていた。
口語訳では「柔和」、新共同訳では「謙遜」となっている。
キリストのことばを思い出す。
「わたしは心が柔和でへりくだっているから・・・」(マタイ11:29)
パウロもまた、次のように勧めている。
謙遜と柔和の限りを尽くし・・・なさい。(エペソ4:2)
モーセは、二人に向かってひと言も発していない。
それどころか、さばきを終わらせるように姉のために祈っている。
モーセは主に叫んだ。「神よ、どうか彼女を癒やしてください」(13)
柔和で謙遜であること。
これこそが、主のしもべの最大の特長と言えるのではないか。
イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35)