主の栄光が幕屋に満ちた
そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。(出エジプト40:34)
いよいよ『出エジプト記』も、最終章となった。
ここでは、幕屋建造についてまとめてある。
主はモーセに告げられた。「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を設営しなければならない。」(1-2)
第二年の第一の月、その月の一日に幕屋は設営された。(17)
エジプトから脱出した日からちょうど一年後に、幕屋が作られたことになる。
律法の授与、金の子牛事件、三千人のさばき、そして悔い改めた民の献身。
わずか一年でも、いろいろなことがあった。
また、幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうしてモーセはその仕事を終えた。(33)
冒頭の「そのとき」とは、このときだ。
雲が天幕をおおい、主の栄光が満ちた。
モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(35)
自分たちが作った天幕を、静かに雲がおおっていった。
恐れ多く、荘厳な光景だっただろう。
モーセですら、入ることができなかった。
この雲は、それから後、主の臨在の象徴として、民を導いていくことになる。
イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。(36-38)
民は、雲に合わせて、雲とともに、旅を続けた。
彼らにとっては、雲がともにあることが、すべてまさってたいせつなことだった。
雲なしに進むことは、即、敗北を意味したのだ。
くり返すが、彼らにとっては、自分たちがどれほど能力を上げるか、どれほど強くなるかといったことではなく、雲がともにあることだけが重要だったのだ。
わたしたちは、どうだろうか。
主がともにおられることだけが大事であると、考えているだろうか。
ときに主を置き去りにして、勝手に進んではいないか。
それは、イスラエルの民が雲を置いたまま行進するようなものだ。
敗北は目に見えている。
主がともにおられないひとつのしるしは、心に平安がないことだ。
主がともにおられるなら、肉的にはおもしろくなくても、心は平安に包まれる。
主よ。
『出エジプト記』をとおして、多くの糧をいただいたことを感謝します。
イスラエルの民が雲とともに歩んだように、あなたのご臨在を確信して、日々前進する者としてください。
アーメン。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)