全焼のささげ物
「その人は自分が主の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。」(レビ記1:3-4)
きょうから『レビ記』に入る。
『レビ記』と聞いて「わくわくする」という人は、よほどのマニアか変わり者だろう。
「あー、レビ記か。どんなみことばがあったっけ?」という人が多いのではないだろうか。
わたしもその一人で、正直言って、つまらないイメージだ。
しかし、聖書というのはおもしろいもので、嚙めば嚙むほど味が出る。
無味乾燥と思っていたところが、自分の成長に合わせて、少しずつ光を放ちだす。
これだから、やめられない。
おっくうがらずに、この山にも登ってみよう。
『レビ記』の序盤は各種の「ささげ物」についての記述で、1章では「全焼のささげ物」が扱われる。
牛、やぎ・羊、山鳩・家鳩のひな、と各自の資産に応じて献げるようだ。
いずれも祭壇の上で焼いて煙にする。
これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。(9)
これらのささげ物は、「全焼」にする必要があった。
「半焼」でも「三分の一焼」でもない。
まるごとの「全焼」だ。
新約聖書は、こう告げている。
キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。(テトス2:14)
もしキリストが、ご自分の半分だけしか献げられなかったら、わたしたちは救われなかった。
イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。(ヘブル7:27)
キリストは、わたしたち一人ひとりのために、ご自身を完全な全焼のささげ物として献げてくださった。
わたしたちは、信仰によってこの方の頭に手を置き、イスラエルの民が牛と一体化したように、キリストと一体化する。
ゆえにわたしたちは、キリストにあって、神に「受け入れられる」。
あらためて、主の御名をたたえよう。
しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。(ヘブル9:26)