その雄牛の頭に手を置く
あなたは雄牛を会見の天幕の前に近づかせ、アロンとその子らはその雄牛の頭に手を置く。(出エジプト29:10)
アロンとその子らは、祭司職を任命された者として、聖別される必要があった。
彼らは、屠られる雄牛や雄羊の頭に手を置いた。
あなたは会見の天幕の入り口で、主の前で、その雄牛を屠り、その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の四隅の角に塗る。その血はみな祭壇の土台に注ぐ。・・・これは罪のきよめのささげ物である。(10-12・14)
わたしは、ときどき考える。
もしいまわたしたちが同じことをする必要があるとしたら、そのときどのような感情になるだろうか、と。
一頭の雄牛が引かれてやって来る。
その頭に、わたしは手を置く。
この牛は、いまから殺される。
わたしの代わりに。
牛に容赦なく刃物が振るわれる。
血が滴り落ちる。
激しい息はしだいに絶え、力なく横たわる。
わたしの代わりに。
この雄牛がわたしに代わって血を流し、苦しみを受け、死を味わったがゆえに、わたしはその血によって無罪とされる。
その雄羊を屠り、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また彼らの右手の親指と右足の親指に塗り、その血を祭壇の側面に振りかける。祭壇の上の血と、注ぎの油を取って、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束にかける。こうして、彼とその装束、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなる。(20-21)
言うまでもなく、この贖いのみわざをご自身のからだをもって完全に成就されたのが、イエス・キリストだ。
キリストは、わたしの代わりに十字架にかかり、血を流し、苦しみ、死刑を受けられた。
その血潮のゆえに、わたしは罪赦された。
御名をほめたたえよう。
雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(ヘブル9:13-14)