みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

香を自分たちのために作ってはならない

「その割合で作る香を自分たちのために作ってはならない。それはあなたにとって、主に対して聖なるものである。」(出エジプト30:37)

 

アロンは、朝も夕も、「香」をたく必要があった。

 

「アロンはその上で香りの高い香をたく。朝ごとにともしびを整え、煙を立ち上らせる。アロンは夕暮れにともしびをともすときにも、煙を立ち上らせる。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。」(7-8)

 

聖書において「香」はしばしば、聖徒の祈りに例えられる。

 

私の祈りが、御前への香として、手を上げる祈りが、夕べのささげ物として、立ち上りますように。(詩篇141:2)

 

また聖書において「香り」は、「キリストの香り」につながる。

 

しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。(2コリント2:14-15)

 

冒頭のみことばにあるように、香は「自分たちのために作ってはならない」とされた。

それは「主に対して聖なるもの」、つまり主のためのものだ。

 

現在は「香り」ブームで、さまざまな商品が並ぶ。

大半は、自分を快適にしたり、自分をより魅力的にしたりするためのものだ。

しかし、聖書における「香」は、自分のためではなく、主のためなのだ。

主がその香りをかいで、喜ばれる。

 

わたしたちは「キリストの香り」を現したいと願うが、そこに「自分のため」という自分の栄光を求める心が潜んでいないかどうか、よくよく吟味したい。

 

「これと似たものを作って、これを嗅ぐ者は、自分の民の間から断ち切られる。」(38)

 

これはあきらかに、「自分のため」にやっている。

主は厳しく対処される。

コリント書は、こう続けている。

 

私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。(2コリント2:17)

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村