みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

宣教のことばの愚かさを通して

神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(1コリント1:21)

 

はじめて新約聖書を読んだとき、(聖書とは変わった書物だな)と感じた。

福音書のような「伝記」もあれば、使徒行伝のような「ルポルタージュ」もあり、さらには「手紙」が多く納められている。

「人の手紙をありがたがって読んでいるのか!?」という程度にしか思わなかったのだ。

そして、「福音書はキリストの"いい言葉"がたくさんあってわかりやすいが、手紙は何のことやらさっぱりわからん」というのが正直な感想だった。

 

それから三十年が経ち、いまでは手紙も「神のことば」として、感動しながら読むようになった。

これもまた、主のなさった奇跡である。

 

さて、今回から、『コリント人への手紙第一』に入る。

冒頭のみことばは、わたしが好きな聖句のひとつだ。

以前の新改訳では、こうなっている。

 

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(21)

 

最高度に頭の良い人が、どんなに万巻の書物を読もうとも、人間的な知恵によっては「神を知ることがない」。

それは、「神の知恵」によって、神がそうされたのだ。

そしてただ「信じる者」だけが、神を知ることができる。

 

なんとすばらしい真理であることか。

救われること、神を知ること、その唯一の方法として「信仰」を選ばれたことに、わたしは心から感動する。

これ以上簡単で、これ以上公平で、これ以上人間を誇らせない方法は、ほかにない。

 

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25-26)

 

パウロは、「宣教のことばの愚かさを通して」と書いた。

ここでいう「愚かさ」とは、キリストの十字架の死と復活を、まっすぐに伝えることだ。

 

キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(17-18)

 

キリストの十字架の死と復活を伝えることは、世の人から見れば「愚か」なことかもしれない。

しかし、そこで妥協せず、まっすぐに伝えるときに、主がはたらいてくださる。

笑われようが、馬鹿にされようが、関係ない。

主を信じて、働こう。

 

私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。(2コリント2:17)

 

 

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