隠された神の知恵を語る
私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。(1コリント2:7)
1章に引き続き、パウロは、自らの宣教が人間的な知恵によるのではないことを強調する。
兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。(1)
なぜ、そうしたか?
それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(5)
「人間の知恵」に支えられたものは簡単に崩れるが、「神の力」に支えられるなら崩れることはない。
そして、6節からパウロは、“もう一つの知恵”について語る。
しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去っていく支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。(6-7)
「隠された神の知恵」だから、「奥義」といわれている。
このもう一つの知恵に対して目を開かれた人たちが、「成熟した人たち」だ。
それは人間の知恵ではなく、ただただ「御霊」のはたらきである。
それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。(10)
「御霊による啓示」こそが、わたしたちにとってもっとも必要なものだ。
仮に、聖書をすべて暗記し、あらゆる神学体系を理解したとしても、「御霊による啓示」がないならば「人間の知恵」に過ぎない。
そこには、いのちが無い。
喜びも無い。
神との親しい交わりも無い。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。(14)
イエスさまが御霊について語られたとき、ニコデモはまったく理解できなかった。
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:6)
この奥義を知るには、どうすればいいのか。
ひとつだけ確実な方法がある。
「主よ。教えてください。わたしの目を開いてください」と、小さくなって祈ることだ。
幼子だけが、真理を知ることができるのだ。
しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。(9)