みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

肉的な知恵によらず

私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。(2コリント1:12)

 

きょうから『コリント人への第二の手紙』に入る。

著者は第一の手紙と同じく、パウロだ。

 

ところで、『ローマ人への手紙』、『コリント人への第一の手紙』と読んできて、あらためて気づかされていることがある。

それは、これらは「論文」ではなく「手紙」であるということだ。

何を当たり前のことをと思われるかもしれないが、わたしにとっては新鮮な気づきだ。

 

「論文」であれば、義認論、律法論、復活論など、パウロの受けた啓示をそのまま論じればよい。

もちろんそれらを論じてはいるのだが、「手紙」であるからには、それを相手に伝える事情や目的がある。

 

ローマ書であれば、ローマ教会に広がっていた「人をさばく」あり方、ことに「イスラエル人をさばく」ことについて、その愚かさと誤りを正すために、福音とは何かをしっかり伝える必要があった。

 

第一コリント書であれば、分派や不品行を許してしまっている状況を正すために、教会や復活について多くの言葉を割いた。

 

要するにわたしは何を言いたいのかというと、これまで福音の本質を現す重要な箇所として読んでいたいわゆる“有名な”みことばの多くが、手紙全体の流れから見ると、実は"挿入句的”に入っているということだ。

 

これはそれらのみことばを軽んずるという意味では、もちろんない。

そうではなく、パウロがどういう背景の中で、どんな思いで手紙をしたためているかをとらえることが、みことばをより深く理解することにつながるのではないかと思うのだ。

 

その意味で、今回、『コリント人への第二の手紙』に入るにあたり、全体をざっと読んでみると、浮かび上がる背景がある。

それは、コリントの教会には、依然としてパウロに対する批判が根強く存在していたということだ。

 

パウロは人間的(肉的)な考えで行動している。

自分を神のしもべと言うが、自薦に過ぎないではないか。

実際には話しぶりもなっておらず弱々しい。

彼は狂気じみている。

 

こういった声が、少なからずあったことが伺える。

特に、彼が自分勝手な考えで動いている、神のみこころと一致しているとは言い難いとする批判に対して、至るところでパウロは反論している。

 

冒頭のみことばも、そのひとつだ。

 

神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきた・・・(12)

 

これは、パウロの心からの叫びだ。

パウロは、自分の計画について弁明したあと、こう言っている。

 

このように願った私は軽率だったのでしょうか。それとも、私が計画することは人間的な計画であって、そのため私には、「はい、はい」は同時に「いいえ、いいえ」になるのでしょうか。(17)

 

パウロは軽率だ」とする批判があった。

これに対し、みこころだと確信したことが、あとで簡単に「やはりみこころではなかった」と変わるような、そんな軽率な考えで行動しているのではないと反論しているのだ。

 

神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。(22-23)

 

パウロは、自分の行動の保証は「御霊」にあり、「神」が証人であると、言い切っている。

彼はけっして思い上がりではなく、徹底した謙遜のゆえに、この確信をもって手紙を書き綴っていく。

そういう視点を持ちながら、この書を読んでみたいと思う。

 

こう言うのは、キリストが私によって語っておられるという証拠を、あなたがたが求めているからです。(2コリント13:3)

 

 

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