つまずきとならないように
ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。(1コリント8:9)
パウロは、「次に、偶像に献げた肉についてですが、」(1)と書き始めた。
「結婚」に関する質問と同様に、この件についてもコリントの人たちからの手紙に書いてあったのだろう。
「偶像など存在しないものだし、キリスト者は自由なのだから、食べたって何の問題もない」と言う人たちと、「いや、やはり良くないのではないか」と言う人たちがいた。
この問題は、ローマ人への手紙にも出てくる。
ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。(ローマ14:2-3)
現代の日本人クリスチャンで「肉を食べていいかどうか」と悩む人はほとんどいないだろうが、扱っている問題の核心は、わたしたちにも十分適用できる。
それは、「わたしたちの権利が、弱い人をつまずかせる可能性がある」ということだ。
「まことの神だけが神だ、私はそれを知っている。キリスト者はいっさいの律法から自由になった。だから自由に振舞うのだ」
このような、どこか“これ見よがし”の信仰に陥る。
生まれたてでフラフラしている子鹿の横を、どうだと言わんばかりに駆け回る先輩鹿のようだ。
子鹿が真似ようとすれば、つまずいて倒れてしまう。
このような「私はこうだ」と言わんばかりの信仰の特徴は、他者への配慮に欠けていることだ。
しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。(1)
パウロの結論は、一貫して、「愛に基づいて行動せよ」だ。
自分ではなく他者に、行動の基準がある。
ところで、「つまずき」について考えるとき、わたしは恐れを感じる。
自分が人をつまずかせたことにはほとんど気づいていないのではないか、と思うからだ。
イエスさまは、つまずきを与えることを、強い言葉で非難された。
「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。」(マタイ18:6-7)
他者に配慮して愛によって行動しているかどうか、いま一度吟味したい。
ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。(13)