信仰から出ていないことは、みな罪
しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ14:23)
子どもの頃、同級生たちには、先生から怒られるようなことを悪びれもせず楽しそうに行う者たちがいた。
わたしは横目で見ながら、「そんなことしたら怒られるんじゃないか」と、ドキドキしているような子だった。
怒られてもケロッとして、実際、先生からも可愛がられていた彼らが、内心うらやましくもあった。
このように人の良心は、子どものときからすでに“人それぞれ”だ。
パウロは、14章をこう書き始める。
信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。(1)
信仰者として周りの信仰者にどう配慮すべきか、これが14章の主題だ。
ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。(2)
あれは食べていいのかいけないのか、あの日は特別に大事なのかどうなのか。
こういった問題は、昔も今も変わらない。
タバコは吸っていいのか、酒は飲んでいいのか、飲んでいいならワインはよくてビールはダメなのか、ヒゲはどうだ、外車は贅沢か、前髪はまゆ毛にかかってはいけないのか。
まるで校則だ。
パウロは、ひとつの結論としてこう書いた。
私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。(14)
問題は「それ自体」ではなく、わたしたちの「心」がどうかだ。
「疑いを抱く人が食べるなら」それは罪だと、パウロはいう。
神さまに怒られはしないかという恐れは、罪に落ちたときのアダムもそうだった。
神との全き一致から、すでにズレが生じている。
そして、パウロがもっとも言いたいことは、自分のやり方を押し通すのではなく、周りの兄弟姉妹たちに深く配慮せよ、ということだ。
こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(13)
信仰もまた、"人それぞれ"でいいのだ。
自分はこうなんだと言わんばかりの態度は、愛のある態度とは言えない。
そうではなく、周りの人に配慮した言動をとれるような、そんな信仰者になりたいと思う。
ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。(19)