みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

負い目のある者

私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(ローマ1:14-15)

 

『四福音書』と『使徒の働き』を終えて、次にどこに進むか、少々迷った。

順番でいえば、『ローマ人への手紙』である。

しかし、その名を聞いただけで何か巨大な絶壁が眼前に現れるような、そんな気がして気持ちが萎えそうになる。

 

もちろん聖書を読む上で軽いも重いもなく、どの書も心して祈りつつ読むべきである。

ただ、中でも『ローマ人への手紙』は、襟を正されるような、正座したくなるような、ある種の緊張感を伴うのだ。

ちょうどバッハのシャコンヌを聴くときのように。

 

とはいえこのブログも、聖書の「学び」ではなく、個人的な「備忘録」のつもりで始めたのだから、あまり気負わずにやっていこうと決めた。

ということで、的外れなことを書くこともあるかと思うが、訪問してくださる皆様、あたたかく見守っていただけたら幸いである。

 

 

言い訳はこのくらいにして、さっそく入っていこう。

 

『ローマ人への手紙』が『使徒の働き』の次におさめられているのは、よくできているなと思わされる。

というのも、『使徒の働き』は後半をパウロの伝道記録に割いており、特に最後の28章は、苦労の末に辿り着いたローマでの伝道のようすを記して終わっているからだ。

話の流れとして、入りやすい。

 

どの手紙も、どんな背景で書かれたかを意識しながら読むと、より理解しやすいように思う。

新約聖書におさめられているパウロの手紙は全部で13通あるが、『ローマ人への手紙』はその中で6番目に書かれたものらしい。 

1章からはっきりわかることは、パウロはこの手紙を書いた時点では、まだローマに行ったことがない、ということだ。

 

祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。(10)

 

・・・何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。(13)

 

パウロが各地域をまわって導いた兄弟姉妹たちがその後移住するなどして、ローマにも教会が立ち上がった。

その彼らに宛てて書かれたのが、この手紙だ。

 

使徒28章には、パウロがローマに到着したとき兄弟たちが迎えに来てくれたことや(使徒28:15)、ユダヤ人たちが彼のもとに集まったことが記されている(同17)。

その中には、『ローマ人への手紙』を読んでいた人も多かったと思われる。

 

さてパウロは、自分を「負い目のある者」とした。

以前の訳では、「負債を負って」いる者だ。

彼にとって、福音を伝えるとは負債を返すことであった。 

これは独特の感覚だ。

 

コリント人への手紙には、こう書いている。

 

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。(1コリント9:16)

 

「福音を宣べ伝える」ことについての大変な覚悟を感じる。

たしかにパウロは、回心する前、キリスト者たちを徹底して迫害した。

おびえながら逃げ惑った者や、主に祈りつつ処刑されていった者たちの姿が、パウロの脳裏にはずっと残っていたのではないだろうか。

彼にとって、キリストの福音を宣べ伝えることは、もはや自分を喜ばせるものなどでは到底なかった。

 

このパウロが、「福音とは何か」を深く論じたのが『ローマ人への手紙』だ。

この手紙を読むことで、よりいっそう福音の奥義を自分のものとし、力強い信仰の歩みに進めていけたらと願う。

 

福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(17)

 

 

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