神にはえこひいきがない
悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです。(ローマ2:9-11)
2章の冒頭から、突然パウロは刀を抜き、読者に向けて突きつける。
ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。(1)
ここからパウロは、すべてを見通される神が、すべての人を、何のえこひいきもなく、公平にさばくのだと主張する。
そこには、ユダヤ人たちの、ユダヤ人であることを誇り、割礼を誇るようなあり方が念頭に置かれていた。
神はそんな外見で判断する方ではないと、パウロは突きつけた。
たしかに神は、イスラエルをご自分の民として選ばれたのだが、それは彼らをえこひいきするためではなく、彼らを通して栄光を現すためであった。
それを彼らは、無意味にも誇り、高ぶり、他者を見下げた。
考えてみれば、神のさばきが偏って行われ、えこひいきがまかり通るなら、それはもはや神とはいえない。
神のさばきが完全に公平だからこそ、わたしたちは神を神として崇めることができる。
そしてその公平さは、何も「さばき」だけではない。
イエスさまは、こう教えられた。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:44-46)
さらに、こう続けられた。
「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(同48)
天の父と同じように、どの人も分け隔てなく、愛しているか。
そう問われたら、言葉を失う自分がいる。
自分の中に、人を隔て、線引きしたがる心が巣くっているのを、認めないわけにはいかない。
わたしたちの党派心や、人を拒絶する心の奥には、かならず“高ぶり”がある。
これは天の父のあり方ではない。
神のさばきの前では、すべての口がふさがれる。
まして十字架の前では。
主よ。わたしから、無意味な高ぶりを取り除いてください。
「神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒17:30-31)