何の妨げにもならないように
ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。(1コリント9:12)
コリントの教会には、パウロを「さばく人たち」がいた。
私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。(3)
「パウロは自由だと言いながら、肉を食べないじゃないか」
私たちには食べたり飲んだりする権利がないのですか。(4)
「パウロは妻を持とうとしないが、結婚しないほうがいいということか」
私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。(5)
「パウロは使徒でありながら、自分で働かないといけない身なのか。使徒といえないのではないか」
あるいは、私とバルナバだけには、生活のために働かなくてもよいという権利がないのですか。(6)
そして冒頭のように、権利はあるにもかかわらず、あえて「この権利を用いませんでした」と言った。
それは、「キリストの福音に対し何の妨げにもならない」ためだと。
19節からは、独特の言葉が続く。
私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。(19)
ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法の下にある人たちには律法の下にある者のように、律法を持たない人たちには律法を持たない者のように、弱い人には弱いものになったという。
すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。(22)
「すべての人に、すべてのものとなった」とは、どういう意味だろうか。
それは、妥協して彼らに迎合したということではない。
日本の諺にいう<郷に入っては郷に従え>というのでもない。
そうではなく、それらの人につまずきを与えないよう深く配慮して行動した、ということだ。
これが8章から続いている主題だ。
「福音に対し何の妨げにもならないように」という言葉と、「何人かでも救うため」という言葉は、同じ意味だ。
そのためにパウロは、持っている自由や権利を、あえて行使しなかった。
私は福音のためにあらゆることをしています。(23)
パウロの行動は、すべて「福音のため」だった。
そのために、つまずきとなる可能性のあることをいっさい遠ざけたのだ。
さて、わたしは、福音の妨げとなり、人をつまずかせることに対し、これほどの注意を払っているだろうか。
むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。(27)
兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(ガラテヤ5:13)