神の栄光を現す
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10:31)
今回、『コリント人への第一の手紙』を読みながら、パウロの主張が一貫していることに、あらためて気づかされている。
ことに、8章から10章にかけては、
- 隣人につまずきを与えない
- そのために、自由や権利をあえて用いず、愛に基づいて行動する
ことが、くり返し語られている。
冒頭の句は、この手紙の主題ともされる言葉だ。
わたしはこれまで、このみことばを“なんとなく”読んでいた。
「食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すために」を、正直に告白するとただ“品良く振る舞う”といった程度の意味に受け取っていたし、あるいは、すべては伝道のためというばく然とした捉え方をしていた。
間違いではないだろうが、文脈に即してよく見ると、少し違ってくる。
結論をいえば、やはりこの言葉も、「隣人に配慮して、愛によって行動する」という意味なのだ。
あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。(27−29)
ここに、はっきり打ち出されている。
行動の基準は、自分ではなく隣人にある。
「私」はすでに、「自由」を得ている。
だからこそ食べることができる・・・、だけでなく食べないこともできる。
どちらを取るかの基準は、「私」の思いではなく、「隣人」がどう受け取るかにある。
だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。(24)
ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(22−23)
わたしたちが隣人に深く配慮し愛によって行動することが、「神の栄光を現す」ことになるのだ。
考えてみれば、自分のことは片付き、その上で他者に配慮できる人が“大人”な人だ。
15節で「賢い人たち」と呼ばれている人が、これに当たる。
わたしはいままで、どれほど“自分本位”だったことだろう。
隣人を愛するとはどういうことか、もう一度はじめから学びたいと思わされている。
兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。(1コリント14:20)