からだに水を浴びずに聖なるものを食べてはならない
「これに触れた者は夕方まで汚れる。その人は、からだに水を浴びずに聖なるものを食べてはならない。」(レビ記22:6)
祭司は、民がささげ物として持って来たものを神に献げたあと、その残りを自分たちの食物とした。
22章は、そのような祭司の食物に関する規定である。
前章まで「性」に関する戒めが続いたが、ここでは「食」だ。
人間の本能的な「欲」に焦点が当てられているようにもみえる。
「アロンとその子らに告げよ。イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別したものである。わたしは主である。彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエルの子らが主に対して聖別した聖なるものに、汚れたままで近づくなら、その人はわたしの前から断ち切られる。わたしは主である。」(2-3)
ポイントは、「汚れたままで」食してはならない、ということだ。
だから、それらは「慎重に扱」う必要があり、
「からだに水を浴びずに聖なるものを食べてはならない」(6)
と言われている。
この章と対照して読みたいのが、『コリント人への第一の手紙』の11章だ。
パウロはここで、キリストの聖餐にあずかること、すなわち、キリストのからだと血を覚えてパンと杯にあずかることにふれてから、次のように言っている。
したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。(1コリント11:27-29)
当時のコリント教会では、「みからだをわきまえないで」めいめいが自分勝手に食事をする傾向にあった。
それは主の肉と血という最も聖なるものに対する、不用意で安直な態度である。
何のために教会でパンと杯にあずかるのかをよく考えよと、パウロは言っているのだ。
主を恐れ、敬虔に歩むこと。
これはなにも聖餐や食事のときだけではない。
自らを吟味し、主とともに歩むということを、忘れないようにしたい。
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。(1コリント10:31)