主の例祭
「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。」(レビ記23:2)
23章は、「主の例祭」についてのことばだ。
例祭は、全部で七つある。
ざっと見てみよう。
- 過越の祭り(5)/第一の月の十四日/夕暮れに過越のいけにえを献げる
- 種なしパンの祭り(6)/第一の月の十五日/七日間種なしパンを食べる
- 初穂の祭り(10)/収穫を刈り入れたあとの安息日の翌日/初穂の束・雄の子羊・穀物のささげ物・注ぎのささげ物
- 七週の祭り(15)/3.から五十日後/パン種を入れて焼いたパン二つ・雄の子羊・雄牛一頭・雄羊二匹・食物のささげ物・注ぎのささげ物など
- ラッパの祭り(24)/第七の月の一日/食物のささげ物
- 贖罪の日(27)/第七の月の十日/食物のささげ物
- 仮庵の祭り(34)/第七の月の十五日から七日間/食物のささげ物
こうして見ると、いくつかのことに気づく。
一つは、例祭の目的は主のみわざを記念し心に留めることである、ということだ。
単なるお祭り騒ぎのフェスティバルではないのだ。
いまもイスラエル人はこれらの祭りを行うそうだが、そのたびに、主に選ばれた民族としてのアイデンティティーを確認するのだろう。
もう一つは、例祭ではささげ物が献げられたということだ。
「種なしパンの祭り」を除くすべての例祭で、何らかのささげ物が献げられる。
このことから、次のことがわかる。
主の例祭では、主のみわざを覚え、それに対する民の応答としてささげ物が献げられた。
面倒臭そうに、あるいは義務的に献げるのでは、意味がない。
そうならないためには、まず「主のみわざ」にしっかり目を留める必要がある。
主がわたしのために何をなしてくださったのか、いまもどのようにかかわっておられるのか。
心静かに思いを向ければ、おのずから感謝と喜びが湧き、主に献げたいと思うようになるのではないか。
わたしたち異邦人キリスト者はこれらの例祭を行うことはないにせよ、日々、主のみわざを覚え、新しい心をもって自らを献げたいものである。
一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(2コリント9:7)