第七の月の十日
「次のことは、あなたがたにとって永遠の掟となる。第七の月の十日には、あなたがたは自らを戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中に寄留している者も、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなたがたをきよめようと、あなたがたのために宥めが行われるからである。あなたがたは主の前ですべての罪からきよくなる。」(レビ記16:29-30)
16章は、「贖罪の日」の規定だ。
年に一度、「第七の月の十日」に、大祭司が至聖所に入り、民のための宥めを行う。
その際は、雄やぎ二匹、雄羊一匹が用いられ、大祭司はそれらの血と、「香り高い香」を持って垂れ幕を通り、至聖所に入る。
決められた細かな手順どおりに行い、民の罪は宥められる・・・とされた。
とされた、のだ。
罪が贖われたものとして扱おう、ということだ。
『ヘブル人への手紙』の著者は、これらの祭儀があくまでも形式的なものにすぎないことを主張している。
・・・第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。・・・この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。(ヘブル9:7・9)
大祭司が贖罪の儀式を行ったとしても、民の罪が完全永久にきよめられるわけではない。
だから「毎年」行う必要があった。
律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。(ヘブル10:1)
律法は「実物」の「影」にすぎないと言っている。
文字どおり、本体の投影だ。
ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。(ヘブル9:23-24)
ああ、キリストの救いの完全さよ。
レビ記を学ぶことで、そのすばらしさを深く味わうことができる。
ハレルヤ。
このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。(ヘブル10:10)