軽々しく口で誓った場合
「また、害になることであれ益になることであれ、誓ったことが何であれ、人が軽々しく口で誓った場合、そのことを知ってはいたものの彼には隠れていて、後になってその一つについて責めを覚える場合――」(レビ記5:4)
引き続き、「罪のきよめのささげ物」に関して語られる。
上のみことばには、次のように続く。
「これらの一つについて責めを覚える場合には、自分が陥っていた罪を告白し、自分が陥っていた罪のために償いとして、羊の群れの子羊であれ、やぎであれ、雌一匹を主のもとに連れて行き、罪のきよめのささげ物とする。祭司は彼のために、罪を除いて宥めを行う。」(5-6)
「軽々しく口で誓う」ことは罪であると、はっきりわかる。
舌先三寸で発言し、実行はしないということだろう。
クリスチャン作家の三浦綾子さんは、エッセイの中で、軽い言葉を使うことに気をつけるべきだということを書いていた。
「また会いましょう」といった何気ない言葉でも、おろそかにしてはいけないと。
特に個人的に思うのは、子どもに対する言葉だ。
「わかったよ、また今度ね」
よく使ってしまうのだが、こちらがとりあえずその場をしのぐために言っているのに対し、子どもは本気で受け取る。
だから、「今度って、いつ?」と聞いてくる。
神に対してはどうだろうか。
聖書は言う。
神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。(伝道者の書5:2)
「悔い改めます」と軽々しく言ってしまっている気がする。
言葉の軽さは、責任感の軽さと等しい。
軽々しい言葉を、なくしたいものだ。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」(マタイ5:34-37)