肉のいのちは血の中にある
「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。」(レビ記17:11)
キリスト教とかクリスチャンなどというと、多くの人はどこかきれいで清らかな、ステンドグラスが輝く教会のようなイメージを持つかもしれない。
しかし、実際は逆ではないかと思う。
なぜなら、その象徴は、十字架上で血に染まった神のひとり子なのだから。
私の師は、罪の裁きのメッセージを聞いた人からこう言われたという。
「キリスト教というのは、たいそう厳格なものですね」
これに対し師は、こう答えたそうだ。
「当たり前です。神のひとり子が十字架で血を流し死なれたわけですから、いい加減なはずがありません」
世界が始まって以来、もっとも厳格で重いできごとは、キリストの十字架の死である。
へブル書の著者は、書いている。
律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル9:22)
「血を流す」とは、いのちを捨てるということだ。
また、こうも書いている。
あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。(ヘブル12:4)
いのちがけで罪と戦ってはいない、ということだ。
聖書においては、血はいのちを意味する。
だから、血を食べることも禁じられた。
「それゆえ、わたしはイスラエルの子らに言う。あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間に寄留している者も血を食べてはならない。」(12)
血、いのち、これらは聖書を貫く重要なワードだ。
レビ記をとおして、あらためてそのことを思わされる。
ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19)