みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

身を汚してはならない

「あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。」(レビ記18:24-25)

 

18章では、はじめに次のような主のことばがある。

 

「あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。」(3)

 

特にこの章で扱われているのは、「性的な乱れ」に関する事柄だ。

エジプトもカナンも、性的な面で非常に乱れていたと思われる。

 

まず、肉親と関係を持つことが禁じられる。

 

「だれも、自分の肉親の者に近づき、相手の裸をあらわにして交わってはならない。わたしは主である。父の裸をあらわにすること、すなわちあなたの母の裸をあらわにすることをしてはならない。彼女はあなたの母である。彼女の裸をあらわにしてはならない。」(6-7)

 

親はもちろんのこと、おばや異母兄弟(姉妹)、義姉(妹)、父の後妻、孫、息子の嫁など、あらゆる近親者との性的関係に言及されている。

そんなことがあるのかと思うようなところまで書かれているから、聖書は恐ろしい。

現代は性の乱れが著しいと言われるが、古代から人間はそういう者だったことがわかる。

 

後半では、月経期の女性、他人の妻、さらには同性同士の関係が禁じられ、果ては獣姦にまでふれている。

いやさすがにそんなことまではしませんよ、とほとんどの人は言うだろうが、キリストが言われた「情欲を抱いて女を見る」者は、すでに同じライン上にある。

 

このような性の乱れは、偶像崇拝と密接に関係している。

 

「また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」(21)

 

聖書において、姦淫とは、霊的な面と肉体的な面の両面を意味する。

性的に奔放な歩みをしながら、神の前に誠実に歩むなど、ありえないことなのだ。

 

結婚がすべての人に尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。(ヘブル13:4)

 

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